昭和46年03月20日 朝の御理解



 御理解 第41節
 「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい。」

 「わが心からも練り出すがよい」と。話を聞かしてもらう、まあなるほどと合点がいく事もあれば、合点がいかない事もあると。そこのところで、どっちが本当だろうかというように、自分で練って行く。ここで言う「練り出すがよい」とはそういう事ではないと思うんですよね。言わば聞いた話を頭で練るというのではないと思います。頭で練るとね、信心が大変お粗末になってまいりますね。ここではこういうような例がいくらもあります。「此の方の行は、火や水の行ではない。
 家業の行ぞ」と、いうふうに教えておられます。ならそれを頭で考えますとね、もう家業が行だから、お参りをせんでいいと言った様な事を、実際にそのようになっていった人達がいますですね。なかなかそれの方が都合のよいごとあるですけれども、事何かという時には全然力のない事に驚いてしまう。全然言うならばお役に立つような信心もできません。「信心は話を聞くだけが能ではない」話を聞いたらその話をね、行じていかなければならない。本気で。
 そして尚且つ分からないところ、が出てくるのです。言うならば本気で勉強をしてみないとですね、質問をするところすら分からないでしょう。分かっとるかと言うて、小学校の時よく言われる。質問はないかと、こう、誰も質問などに手を挙げない。言うなら分っとるというところで先生が「今のをちょっと言ってみなさいと言うと分かっとらん。質問するところすらが分かっておらない。勉強してない証拠だと。分からないところすらが分かっていない。信心はもう「話を聞くだけが能ではない。
 わが心からも練り出せ」。話を聞くだけとは、それこそなんちゅうので話を頂く。その話をです、今日の御理解はどう頂くべきじゃろうか、ああじゃろうか、こうじゃろうかと、まあ言っても悪い事ではない。だから、どうして頭で考えたらそこに出てきた答えそのものを本気で行の上に現さなければだめだ。現して初めて、分からんところが分かってくるんですよ。先日もある方が、沢山の借金を持って、まあ毎日毎日が借金に追われておられる方がお参りに来よったです、毎日。
 それで私がね、お参りをして来なさい、とにかく押しやりけやり道なら開けると私が言うた。そりゃ毎日毎日来て、お話を頂いておりますから、とにかくまあこの、言わばあぁ(?)ですね。におうておるわけですから、いわゆる追い込まれているのですから、毎日真剣に、御理解を頂く。でここでいつも言われるのが、実意丁寧だとね。ところがです、先日お参りをしてみえてから言われるんです。親先生「押しやりけやりと実意丁寧が戦うてなりません」と仰った。
 私は本当に素晴らしいと思うた。おしやりけやりとね、実意丁寧が戦うて、なりませんと。実際に行じてみたからこうなる訳ですよ。教えを頂いとる、その教え、お道の信心はもう実意丁寧が生命だと、いうふうに言われる。そこで、今まで実意丁寧を欠いておった事を、驚いてしまうほどしに、実意丁寧が欠けておったと分からしてもろうたね。先日、「天地日月の心になること肝要なり」というところを御理解に、ところをだんだん頂いておられて、はあ自分の日月のこころが欠けておるなと。
 日月とはもう、いわゆる実意丁寧の限りを尽くして行く以外にはない。日月の心が自分には欠けておったと、分からして頂いて、その事を本気で日々の生活に現して行く。ところがです、実際問題であるとろの、なるほど日々おしやりけやりでおかげを頂いておればです、その実意丁寧と日月の心、いわゆるとその、おしやりけやりと言う事がです、戦うとこう言う訳です。
 そのまあ私は本気であなたが実意丁寧、いわゆる日月の心に取り組まれた証拠に、そこの答えが出たのであるから、私が言うなら又ちょっとヒントを与えましょうと言うて、まあお話したことです。これはまあ、私が借金を沢山の借金を持って、毎日それに苦しんでおった時代の事をその方に私はお話しました。もう何回も何回もそのいつお払いします、いつお払いしますと言うておるのが、間違うもんですから、もう向こうに行きにくくなった。神様にお願いをすると、やはり断りに行けと仰る。
 もうどの面下げて断りに行きようもない。けれども神様が行けと仰るから行くんですけれどもです、もう本当に借金の断りに参りました、もうその人の家の前まで来たら足がぴたっと止まってしもうてからね、動かんごとなる。又またどげなふうに言われるじゃろうかと、また大坪さん嘘言い来たじゃろうと、内輪から言われよったね。そりゃもう実際ね、もうそこを通った者じゃないとわからんです。そう言う様な事を何回繰り返したか分からん。またその日も、ちょうど断りに行かなきゃならん日です。
 足がそれこそ重いんです。福岡に着くまでです。その当時は椛目から大城の電車がを利用しよったですね。ですからあの、あちらで大城まで歩いて行かにゃならん。大城の電車の停留所まで参りましたらです、ちょうど行った後でした。電車が。丁度この待ち合わせが、もう切符売り場のお店でね、善導寺に「小川」さんという樽屋さん、桶屋さんがあった。あれは小川でしたかね。私の親とあんまり変わりません。その時分はお酒は配給でね、普通のもんじゃ手に入らんという品物です。
 ところがその、あの酒屋に出入りをされますから、ああ久保山さんから、いわゆる商いを、あの、いつもまあ融通がきくわけです。そのときいっぱい機嫌であった。ことにこれこれと大坪さん何処行きよんなさるかとこう言う。福岡まで、あれ今あっちの方に電車行きましたよ。と言うて、まあいろいろ話しよる内に、話された。あたしじゃこの頃御井町に相撲を見に行った。ちょうど照国が、照国という相撲取横砂時分じゃったと思います。いろいろ(?)も来ました。
 そして御井町に行った。その時にその照国から、自分の子供を抱いてもろうた。相撲取りに抱いてもらうと、まあ強うなると言う訳。そしてその写真も撮ってもろうたから、そのお礼に先日の御井町に、それこそ一級酒を下げちから、照国にお礼かたがた相撲を見に行った。ところが根っから好きの月なもんですから、見よる内にですね、ちびちび飲みよったらしまえちしもうた。
 とうとう照国に持って行くとをなくなってしもうた。というまあその話をしながらです、私は大坪さん本当はあの相撲ば、相撲の始まる前の稽古相撲の時がよか。ちょっとそりゃもう本当、もう相撲の世界ぐらい厳しいものはない。もうとても自分のあの修行しよる姿をね、親が見たらとても、そこの相撲の弟子にゃやられん。ちょうどその時には御井町から一人、あの修行に、あの修行にやられた方があったんです。親の気持ちが知れん。ちょいとそらもう見られない。もう投げること投げること。
 もうしまいにゃとうとう這いも立ちもしきらんことなっとるとをこうやって掴み上げてから、その立たせてから、叩くもうそれこそ這いも立ちきらんことなってから、ごそごそ下に、早よ下りて行く。それをまた、掴まえてきとってからは、そのふうにやる。もうそれはもう、惨げことするちゅうて、話を私にしてくれるんですよね。もう私はねその話を聞いた時にね、もう本当にこの話は私に神様がして下さったと思うたですね。もう私は今、借金を断りに行くという、そりゃ神様が行けと仰るから度々行きました。
 それこそまたしらごつ言いきよるかと、実際に言われますしね、もうそこの雰囲気に、もうともかく、行かんでほうからかしとうごとあるけれども、神様が行けと仰るから、やらせて頂いたけれども、もうその人の門の前まで行くと足がぴたっと止まってから、動かん。だから周りをぐるぐるまわってから一生懸命、金光様、金光様とその家をぐりっと回れるごとなっとりました。家の外が。ぐるぐる何回回ったか分からんごとして、あのもう本当に一生懸命の思いでね。
 その家に飛び込むようにして、断わりに行きよった。その日もまたその、それこそ重い、足を引きずるようにようにしてから、まあ椛目から福岡へ、この金の断りにやらして頂いておるその途中でその話を聞いた。その時私は思うた。これは神様がね、まあ私は言うならば、もう這いも立ちもきらんごと、状態にある。それこそねもう四百四病の病より貧より辛いものはない、と昔の人が言うたげな、これなんかはやっぱり貧乏してみて初めてそういう実感が分かるんです。
  また病気をしたら、病気をしたでもう、もう貧乏などは問題でない、命さえあればという事になるかもしれませんね。(笑い)けれども私はその時にね、そういう実感の中におらして頂いておる途中で、その話を聞かせて頂いて、これは神様が私を今鍛えて下さっておるなと思うた。そしてね見込みのない、例えば者を鍛えなさる筈がない。これは神様が「末は大関か横綱か」というようなです、目途を付けてござるからこそ、鍛えござるとだなぁと思うたらもうそれこそ、何て言うんでしょうかね。
 元気百倍と言うんですか、もう本当にファイトが湧いてくる。心の底から。 もうそれこそ矢でも鉄砲でも持って来いと言う様な元気が出てくるからもう、これは不思議でした。今までは例えばその人の家の前まで行ったら、足がぴたっと止まるごとあったけれども、それこそ、もうお金ば持って行ったごたる、元気な心でその時やらせて頂いた。やらせて頂いてから、こんにちはと言うちから、そりゃもう出てきた。そしたら向こうの方から、「もう大坪さん、もうよかばい」ちゅうたね。
 「もうあんたができてから払いなさい」とね。もうそれっきり断りに行かんでいいようになった。神様のおかげというその、機微と言うか微妙なもんですね。只神様が行けと仰るからです、もう本当におずおずと、もうやっとかっと足が震うような思いでやらせて頂いた時には、もうそれこそ面から言われよったね、けれども心がね、鍛われておるんだと、悟らせて頂いたんですね。しかもねこれは末はもう大坪でなからなければできんことがあるんだと、私がおかげ頂かにゃならん時が来るんだと。
 そういう願いがあるからこそ、これほどしの修行を神様が求め給うものである、させなさるだと分からして頂いた時にです、それこそどっから湧いて来るか分からんほどしの元気な心が湧いて来た。その借金の断りはそれがもう最後であった。うちもだんだんおかげ頂くようになって、不思議な事で(たーたっと?)あのそれをお直会に秋永先生と一緒に福岡ですから、やらして頂いて、けども向こうはもう「あんた方で、言うなら人がどんどん助かりよんなさると言う事を聞いて、もう家でも喜びよりますて。
 あなたが熱心な御信心しござったけん、やっぱ違うちいうてから家内と二人で話しよります。もうなんで頂きましょうか。もうあんた方の神様にお供えしなさい」ちゅうてから家へとうとう持って行きましたけども、お金は取られませんでした。ね。ですから後で、まあそれに匹敵するだけのものを高橋さんに車で持って行ってもらいました。もうそれはもう一昔も前、昔の話です。だから私が思うのにね、その実意丁寧とこういう事。此の方が言われるようにね。
 自分がその天地日月の心というその日月の心が欠けておる。と本当に分かる。そこで日月の心とは実意丁寧な心だと、聞かせて頂いて、今まで欠けておった実意丁寧を本気で成就という事にならして頂いたら、親先生あなたが言いなさる押しやりけやりというその事と闘いますちゅうね。本当に私はそのとき素晴らしいと思うた、「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい」とこうね。
 だからここんところです、信心はなるほど話を聞くだけが能ではないから自分の頭で一生懸命考えて、寝るというようなふうに考える人があります。ですから浅ーい。それこそおかげも頂けない、自分には楽な方を取る、楽な方を楽な方を取ろうとする。そう言う事では、ね。私は今日皆さんに分かってもらいたいのは、話を聞いたらそれを本気で行じてみるという事なんだ。ね。行じるところから分からんところが分かってくるんです。信心が分かりません分かりません、行じないで分かるはずがない。
 行じてみて尚且つ分からないところが出てくるんです。実意丁寧と、いわゆる先生が言われる押しやりけやりが闘うんだ。どうあるが本当かという事になる。そこでその方に申しましたね。今のようなお話をです、さして頂いた。そこんところをです、おしやりけやりという事は、ろくそうにせろという意味じゃあないと、おしやりけやるようにおかげが受けられるという事であって、おしやりけやりという事はただ、そこに汚い物があるならそれを向こうにこうやって押しやっとくと言う様なものじゃない。
 そこに実意を込めて、断りに行きなさいと私は言う。ところが、なら、その実意を込めて断りに行くでもです、それがまた随分かかります、かかりますよね、私の場合はかかった。もうそれこそ勇ましいごとある心で「今日はぁ」ち言うてから、行けれる心なんです。問題はね、その生き生きした心におかげがあるのです。しおれた心におかげはない。枯れた心におかげはない。はあどうしてこげんいつまでも貧乏せにゃならんだろうかといったような心じゃ、おかげにならん。
 それこそが、神様が私をいよいよ鍛えござるんだなあ、将来どのように私を期待しておられるか分からん。末は大関か横綱かという、願いを持っておるからこそ、人一倍人が苦労せんような苦労をさして下さるのだと、分かった時にいわゆる親の心が分かった時、親の思いが分かった時、湧いてきた元気な心がね、もうすでに言わばおずおずどころではない、元気な心でやらせて頂くだけではない、もうそれには次のおかげが伴うてくる。おかげはそういう心、生き生きした心につくのです。
 「話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい」と、わが心から練り出すという事は、聞いた話を頭でひねるというのじゃない。それはひねってならん事はない。あれ、今日先生がああ言われたがあれはどういう事だろうかと思うてひねってみるのも良かろうけれども、そこに出てきた答えなら答えをです、本当に行の上に現していかにゃいかん。そこからです、今度はまた、分からんところが出てくるんです。勉強しなかったら、先生に質問の時間に質問する事が解らないのと同じ事です。
 解っとるからと思ちから、おいっちゅうて揺さぶると、分かっとらん。分からんならなぜ尋ねんかとこう言われる。ところが勉強しとらんもんで尋ねるところすらが解っていない。(笑い)私はその方の場合です、勉強された。されたから早うそこに答えが出てきた。いや、尚分からんところがはっきり出て来た。実意丁寧とはおしやりけやりが戦うのだと。これはどうとらして頂いたたら良かろうかというごたることなってきた。
 そこで私はそういう時に、そこに実意丁寧、神様が行けと仰るからやらして頂いた。私は「わが心からも練り出す」とう事はそういう事だと思うんです。でないと身に付いていきませんよね。頭でからひねっとっただけでは。本気で言わばお話を聞いて分かった事を行ずる。そこにお金が伴うておるならば、まあそれはそれで良いようなものです。けれどもです、親先生が言うた通りにさして頂いたけれどもです、尚おかげが頂けんというならです、やはり、尚そこのところを練っていかなければいけません。
 私は合楽の方達はこの練るところが非常に、言わば練り足らんように思うですね。どうしてだろうかというふうな疑問を持たない、ようですね。そこから練り出されたところの答えが本当のもの。私は今日初めて今申しました、私のところに借金の断りの話はいつも例にとってお話しますけれどもね、あのあの事が実意、実意を持って断りに行くと言う事だけではなくて、実意を持って断りに行くという、その実意を尽くさせて頂いておる事が有難いとかね。
 または生き生きとした心があのような心を呼んだんだなというふうに、今日はそこんところを分からして頂いた気がするんです。だから形だけではいけない事が分かりますね。話を聞く、それを行ずる、行ずるところから、分からんところが分かってくる。その分からんところを練ってみる。なおかつ分からんなら、それをまたお伺いをする。そしてまたそれを行じてみると、いうような事がです、私はこの41節の神意であると思うんです。「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい」。
 ただ行じないで、ここだけ、ただ読ませて頂くとです。ああやっぱ話を聞くだけではいかん、ただ頭でも( ? )になるにゃいかん。してみると金光様の御信心な頭がいるといったような事を言う人があるけれども、そうではない、分かったというような事を本気で行に現してみる。そこからまた、なお分からんところを練って行く。いよいよ、信心の、いわゆる、醍醐味とでも申しますか、そのものがだんだん身に付いて来る。練り出すとはそう言う事だと思いますよ。
   どうぞ。